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てんてん

てんてん

1981年宮城県生まれ。日本大学芸術学部写真学科卒業。2004年株式会社アマナ(現 株式会社アマナホールディングス)に入社。2013年に独立し、2015年株式会社佐藤写真館設立。

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独立記念日〜アシスタント募集中

2020年2月1日

あけましておめでとうございます。
だいぶ間が空いてしまい、約5ヶ月ぶりの投稿になってしまいました。
数少ない読者の皆さま、大変長らくお待たせしてしまい申し訳ない、忙しくて、ブログを書くモードになれなかったんです。
次回の投稿が、1年後になるのではないかと今から心配してます。


本日は、9年間お世話になった広告制作会社アマナから独り立ちした独立記念日で、僕にとって1年間で最も初心に帰れる神聖な1日です。
思い起こせば、2013年2月1日に独立して、同年に2020年東京オリンピックの開催が決定しました。
7年後にオリンピックが東京で開催されることが決定して、日本中が湧いたのが記憶に新しいです。


オリンピックロゴ問題、競技場問題、最近だとマラソン競技の場所問題など、いろんな問題が出て世界を騒がせましたが、今年の夏には、ついにオリンピック開催です。
僕はアスリートが好きなので、テレビでスポーツの試合をやっていると良く観戦するのですが、オリンピック代表になるには、壮絶な代表争いを勝ち抜かないといけないということを改めておもい知らされました。
全ての代表争いが壮絶だと思いますが、最近気になっていたのが、卓球女子の代表争いと、柔道の軽量級の代表争いです。                 柔道の阿部選手と丸山選手、どちらが代表になるのでしょうか?
どちらが出ても金メダル狙えると思うので、本当に2人とも出してあげたい。
一番楽しみにしているのが、まだ代表に決定していませんが大野将平選手のオリンピック2連覇です。
僕は大野選手の大ファンです。
大野選手の他を寄せ付けない異次元の強さ、強すぎる故に、
観戦してる人が笑ってしまうという不思議な現象が起きてしまいます。    伝説の柔道家木村政彦を思わせる佇まいも、スポーツJUDOではなく日本柔道を感じさせてくれる数少ない柔道家の1人だと思います。


壮絶といえば、カメラマンになる道のりも壮絶でした。           急展開ですが、ここから、前回の続きの社会人編に入って行きます。
大学4年生の時に具体的に写真で生きていくためには、どうすればいいかと考え、仕事をする上でのスキルを身につけなくてはいけないと思い、何社か広告制作会社を受け、株式会社アマナに入ることに決めました。
ただ、当時のアマナに関する情報は大学生だった時分には恐ろしい噂しか入ってこなかったので、少年院か自衛隊にでも入る覚悟で入社しました。
入ってみたら、少年院よりも自衛隊よりも厳しく、しかも運良く会社で一番カッコイイ写真を撮る一番忙しくて一番怖いカメラマンのアシスタントになれたのです。
朝6時に会社に行って、昨日の深夜に作ったセットの整理をして、カメラマンを待ち、その日の本番撮影をして、20時くらいに撮影が終了して、そこからスタジオを移動して次の日のセッティングをして、準備が25時に終わり、
そこからカメラマンに連れられて飲みに行き(僕は下戸)27時に解散して、6時に会社に行くという生活が休みなく1年間続きました。


いやー、辛かった…。たぶん、あの1年より辛い時間は後にも先にも経験しない気がします。                              だけど、あの1年があったおかげで、仕事に対する姿勢、人を喜ばせる喜び、光の作り方などを短い時間で詰め込めた気がします。(今になって思うと)
その後、他のカメラマンにもついたりした期間はありましたが、
3年半のアシスタントを経て社内でカメラマンになることができました。カメラマンになって思うことは、アシスタントの期間よりも、カメラマンになってからの方が大変だということです。                      アシスタントの時期に、尊敬できるカメラマンの側で、しっかりとスキルを身につけないと後々大変な思いをして壁にぶち当たると思います。
センスだけでやっていけるのは、本当のひとつまみの天才だけです。
カメラマンとして大事なことは、自分に仕事をお願いしてきた人に対して、本当にいい写真を提供して、心の底から喜んでもらうことだと思っています。   アマナでは5年半カメラマンをさせてもらいましたが、だんだんと一人で勝負してみたいという気持ちが強くなってきて、2013年2月1日からカメラマン「てんてん」として活動を始め、おかげさまで今年で7年目になります。
撮影が本当に楽しくて、毎回毎回全身全霊で撮影させてもらってます。


最近の1つだけ悩みがあり、そろそろ弟子が欲しいということで、自分がそうしてもらったように、自分で、自分を脅かすをカメラマンを育ててみたいというモードになってます。
もし僕のアシスタントになりたい人がいたら、作品10枚を同封して履歴書送ってきてください。
(アシスタント経験1年以上)気になる人がいれば面接して、テスト期間を設けて採用します。


なにはともあれ2020年も頑張りMAX!!!
ちなみに、東京オリンピック男子100m決勝のチケット当たりました。
オリンピックが楽しみです!!

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晴れがちな男

2019年8月4日

僕は、晴れがちなカメラマンです。
カメラマンにとって、「晴れ男」とか「雨男」のイメージってすごく大事な気がしていて、そういう意味で、皆さんには「晴れがちな男です」と言っています。
晴れ男と名乗るほどの自信もなく責任も取れないが、ロケは結果的に晴れるので、決して雨男ではない。
晴れる確率75%位の「晴れがちな男」です。
そもそも、「晴れ男」「雨男」のくだらない概念を無くしたい。
「晴れ男」はいいが「雨男」と言われている人が可哀想すぎるし、凄く性格が明るい「雨男」でも、なんだか暗い印象を持ってしまいます。
ちなみに「晴れ男」は名乗ったものがちで、名乗った人の、そのだいたいがガサツな人が多い印象です。
最近「天気の子」を見たので、そんな話題からスタートです。

前回の続きで、大学受験です。
高校時代に写真家になりたいと思い始めた僕は、両親に大反対されましたが、
日本大学芸術学部写真学科を目指し猛勉強を始めました。
要領が悪かったせいか全然成績が上がりませんでしたが、夏休みは毎日13時間位勉強してました。
高校3年生の時の我が家は、お父さんが突然、市議会議委員の選挙に立候補したり、それが原因でお母さんが家出をしたりと、バタバタで、
妻が家出した立候補者の息子として学校で少し有名人になったりしました。
ちなみにお父さんは1位で当選して、お母さんは3年後に帰ってきます。
僕も、3つ大学を受験して、見事、日芸写真学科だけ合格することができ
憧れのキャンパスライフを送ることになります。


大学の最初の印象は、女の子がみんな可愛くてビックリ!!
田舎の男子校から来たから余計にそう感じたのかもしれませんが、
写真ブームのおかげなのか、学年の半分以上女の子でみんな可愛いし、
受験勉強頑張ってよかったとその時感じました。
だが、その一方で、あんまり写真が凄い人がいないなとも思いました。
僕としては、全国の写真部上がりの、ネルシャツ、ケミカルジーンズ、メガネをまとった猛者だらけだと想像していたので肩透かしです。
大学生活は総じてメチャメチャ楽しく、コンビニで夜勤のバイトして、授業出て、暗室入って、長い休みは写真旅に出ての繰り返しでした。
在学中は、写真のコンペがあればなるべく出すようにしていて、1年生の時に出品したハッセルブラッドスクールフォトコンテストでグランプリを受賞してしまったのが、カメラマンになることを決定づけたように思います。


そんな大学生活も3年位で飽きて、これからどうしようかと思いながら就職の掲示板を見る日々が何日か続き、広告写真制作の会社の募集があったり、街中で見た無印良品の看板広告に感動したりして、次第に広告に興味を持つようになっていきました。

次回は社会人編です。

写真は、パクチーの成長を観察する近所の兄弟に混ざってお絵描きする娘

こんにちは、令和

2019年7月5日

梅雨ですね。僕は梅雨が好きです。
雨の音とか、紫陽花とか、傘とか、植物がグングン育って行く感じとか、
通り雨が去って、一気に晴れたときの風景も好きです。
僕が育った田舎では、梅雨の時期の登下校は、田んぼ沿いの舗装道路を自転車で走っていると、牛カエルがたくさんいて、生臭かった記憶があります。                                      
早いもので、令和になって2ヶ月がたってしまいました。
改めて、令和ってすごくいい元号ですね。
違和感感じたのは発表された最初の日だけで、すぐに、すーっとなじんでいきました。
例えるならば、緑豊かな山の岩場から湧き出る水のような、とても清らかで美しい響きです。
僕の周りでは、このタイミングで、会社をやめて独立したり、
結婚したりと、新しい人生にチャレンジする人が多い印象です。
僕の思春期を一緒に過ごした、親友の目黒豊君も今月結婚式を挙げるということでとても楽しみにしています。

今回はそんな思春期、中学、高校編です。
僕が入学したのは、今は生徒数の減少で廃校になってしまいましたが、
宮城県角田市立西根中学校。
小学校の同級生が、増えることも、減ることもなく、そのまま全員で中学生になりました。
変わったことといえば、坊主が規則の中学校だったので、みんながクリクリな坊主頭になったこと。
選べる部活は3つだけで、野球、柔道、バドミントン。
野球は先輩が恐い、バドミントンは超走らされるということで、自動的に柔道部に入ることにしました。
本当はバスケとかしたかった。バスケ部とかサッカー部があって、爽やかな部活に入っていたら、コンプレックスがなくてもっと明るい人間になっていた気がします。
いやいや、そんなことはない、コンプレックスや劣等感こそが表現者の肥やしになっていると、偉い人が言っていました。
結果的に柔道部に入ってよかったと思ってて、武道をかじっていることが、
いまの写真を撮影する時のスタイルにいい影響を与えています。
来年のオリンピックの柔道がとても楽しみです。


僕は、中学生の時に夢中になっていたもので、その後の人生が大きく変わると思っていて、その中でも「行け!稲中卓球部」というギャグ漫画の中に広がる人生哲学が僕の人格の大部分を形成している気がしています。
僕は漫画好きですが、家の本棚においてあるのは「行け!稲中卓球部」「幽☆遊☆白書」「スラムダンク」の中学生の時に夢中になっていた3作品だけで、僕の人生にこれ以外は必要ないと判断しました。
中三の時だっと思うのですが、ヤンキー漫画を読みすぎてイキってた僕は、
ひょんなことから同学年全員から突然無視されるという、超つらい経験をしました。
僕が、人生で頭に自殺がよぎったのは後にも先にも、あの無視され続けた日々だけで、本当につらかった、無視の対象になってる本人は、思春期まっただなかで、変なプライドとかもあって、先生や親には相談できないし、
親友だと思ってた友達が、主犯だったりして、誰にも相談できなかったりで、
本当に孤独で学校に行っても空気みたいな感じで、こんな生活が1年続くのかと思うと、当時の僕には耐えられる自信がなかった。
そんな、つらい経験をしつつも、元の楽しい中学生活を取り戻すことができ、
高校へ進学することになります。


大学に行きたい気持ちがあったので、地元の角田高校という男子校に進みました。
高校は、いろんな中学から人が集まってくるので、田舎中学出身な僕は少し劣等感を抱えていて、高校生活はエンジョイしきれず、毎日、中学の同級生の豊くんとばかり遊んでいました。
僕が高校生の時は、HIROMIXさん、蜷川実花さん、ホンマタカシさんが出てきた時で、完全に写真ブームでみんな「写ルンです」を持って写真を撮っていました。
1年生の時に柔道部に入っていた僕は、厳しい部活が嫌になり、途中から帰宅部の写真部に入部しました。
これが写真との出会いです。                       高校の時に50ccのバイクを手に入れた時は、「どこにでも行ける、自由だ!」あの時ほど心身ともに開放感を感じたことはなかったと思います。
休みの日には、豊くんと海に行ったり、廃墟っぽいところに行ったりして、
ファッション誌っぽく写真撮ったりして遊んでいました。
この時から、俺、写真むいてるなーと、なんとなくの自信が芽生え始めました。
僕が今、写真の仕事ができているのは、あの日々があったからだと思います。

次回は大学、社会人編。
写真は平成最後の桜です。
令和はフィルム推しでいきます。

昭和生まれ平成育ち

2019年3月31日

すっかり、ブログの更新が空いてしまい、4ヶ月ぶりくらいですかね。なんだかんだで、ブログはじめて1年経ちました。
「ブログ読んでるけど、全然面白くない」と友達に言われますが、5年間はめげずに書き続けようと思います。
このブログは、僕に多少なりとも興味がある人が読んでくれていると思うので、面白く書こうとは思っていますが、
文章を書くというのはなかなか難しく、頭が悪いのがバレないように毎回悩みながら書いてます。
それでも、書き終わると、日々の出来事や思っていることが整理できて心がスッキリするので、
ブログをはじめてよかったと思っています。

明日はついに新しい元号の発表です。
昭和から平成に変わった時は、子供ながらに、なんかよくわからないけど新しいことが起きそうな予感でワクワクしていたし、
世の中も浮き足立っていたような記憶があります。
今回は時代が変わる節目として、たまには自分の人生をダイジェストで振り返ってみようと思います。
僕は、1981年(昭和56年)に宮城県の角田市という小さな町の、
その中でもさらに山奥の地域の家庭の男4人兄弟の末っ子として誕生しました。
上の兄とは年が離れていたので、小さな頃はおばあちゃんが遊び相手で、
僕の一番古い記憶は縁側でおばあちゃんとトランプで遊んでいる記憶です。
初めて同い年の子供の集団に接したのは、幼稚園の時で、性の目覚めが早かった僕は、同じ志を持つ仲間とスカートめくりをしたり、
女の子に無差別にくっつく「くっつき虫」をする「エロエロ軍団」を結成して、人見知りすることなく幼稚園ライフをエンジョイしていました。
小学校入学式の日は雪が降っていて、家の前でお母さんと記念写真をとった記憶があります。小1の時、兄が小学6年生だったので、
弟ということで6年生のお姉さんにメチャメチャ可愛がられて、小学校って最高だなーと思っていました。
学校と家との距離が8kmもあり1、2、3年はスクールバス通学でしたが4年生から自転車通学になり、
行きは下りと平らな道なので急げば40分くらいでしたが、帰りが坂道だらけなので、毎日1時間半くらいかけて帰ってました。
小学生の時は、勉強できて、わりと運動神経よくて、ちょっと目立ちたがり屋で、
強烈に覚えているのが、小学5年生の時にクラスの「お楽しみ会」で有志で出し物を発表する機会があり、
徳永英明の「夢を信じて」というアニメの主題歌になっていた曲を、
何故か誰にも頼まれていないのに一人でみんなの前でアカペラで歌ったことです。
歌った後、先生に異常に褒められて恥ずかしくなった。(クラスのみんなはポカーンとしてました)
5年生から、少年野球(西根少年野球クラブ)に入って毎週土曜日に練習、日曜日に試合をしてました。
僕らの上の代は、強かったのですが、僕らの代は激弱で、その中でも補欠だった僕は試合の日に休んだ人がいる時に、
休んだ人のポジションに入るというポジションでした。
なぜ僕がレギュラーではなかったのかというと、基本的に4年生から始めた人がレギュラーになっていたからで、
実力的にはセンター7番あたりを任されても良かったのではないかと、今でも思っています。
僕らの代の西根少年野クラブの通算成績は2勝で、最後の試合に途中出場した僕は、
平凡なライトフライを落とすという痛恨のエラーをしてしまい、勝てそうだった試合を負けにしてしまいました。
少年野球の1番の楽しみは、練習後に友達の家に行って、「ストリートファイターⅡ」をやることでした。

久しぶりに文章書いて疲れたので…続きは次回

カメラトリビア

2018年12月11日

女の子を可愛く撮るうえで、たい焼きと女の子の組み合わせは非常に相性が良い。

インプット

2018年9月28日

9月は、新潟の大地の芸術祭、大阪の太陽の塔、信藤三雄ビーマイベイビー、とイベント盛りだくさんの月になりました。
太陽の塔は、48年ぶりに内部公開するということで、2ヶ月前から大学の友人達と予定を合わせて行ってきました。
テレビや本ではもちろん見たことありますが、初めて生で見た太陽の塔は、ただただ異様な存在感を放ち、物凄くエネルギッシュで、
万博公園の広場にどっしりとそびえ立っていました。一日中見てても飽きない姿です。
塔の中には「生命の樹」という、単細胞生物から人類が誕生するまでの過程を表現した、
高さ45mのモニュメントが展示されていて、「生命の樹」の周りの階段をひたすら登りました。
塔の中はおそらく48年前と全く同じで、階段を登りながら、太陽の塔の中にいると思うと不思議な感覚になりました。
写真の太陽の塔、気にいってます。(額装して家に飾ってます)人類が誕生する太古の昔から、あたり前の様に立っているような、
人類が滅んだ未来に寂しそうに立っている様な‥…。48年間で流れた雨の跡が、涙を流している様に見えます。